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中村忠之さん

  中村忠之さん (広島市中区住吉町)

 昭和20年(1945年)8月6日、誰もが忘れ得ぬ「ヒロシマ原爆の日」である。当時私は14歳、旧制中学の2年生で、その日は同級生全員が、現在広島駅新幹線側にあった「東練兵場」に植えられていた、サツマイモの草取り作業に狩り出されていた。

 その頃、1日置きに学業と、旧広島県庁(中島町所在)周辺の疎開住宅取り壊し作業に、一年生と交代に従事していたのだが、6日の日は急に学業に代えて「草取り作業」を行うことになったのである。結局1年生が(ほぼ)全員旧県庁跡地付近で被爆死し、我々2年生がなんとか生きながらえたことは、果たして偶然かそれとも必然なのか。いわば私たちの身代わりになってくれた1年生の冥福を祈るばかりである。

 6日の午前8時15分に惨劇は起きたのだが、殆ど全員が飛び去るB29の方を見ていて、同じ(左)側の頬にやけどを受けたのだが、気付けばみんな散り散りばらばらになっており、もう一人のクラスメイトで同じく広島市の西部に下宿していたM君と二人きりになっており、自宅への帰路が分からないまま、練兵場の背後にある二葉山に逃げ込んでいた。

 おそらく近くの婦人会だろう、ヤケドした頬に油を塗って貰い、仕出しの握り飯を貰い、山腹から燃え続ける広島市を見下ろしながら、まんじりともせず一夜をあかしたのである。(思い出すのも嫌なので、当日の惨状「地獄絵巻」の様子は省略させて貰う)

 当時私は中広町に住んでいたのだが、地理に疎く二葉山の裏手を回って自宅に帰る術(すべ)を知らず二葉山で過ぎし、翌朝その友人と、広島駅から一夜にして廃墟と化した市内を逆にたどって帰路についた。一夜にして産業奨励館は原爆ドームに化し、相生橋の欄干はきれいに横倒しになり、焼け焦げた市内電車・人や馬・・・、なぜか不思議に恐怖感はなく、自分が映画の一場面にいるような印象しかなかった。

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 もう10年近くなるだろうか。ひょんな切っ掛けで風水研究家中村憲二氏の話を聴く機会があった。その時始めて広島城が「竜穴」とい風水上エネルギーの中心地であり、それを守護する東北=鬼門の霊地が二葉山であるということを知った。それまで「鬼門」とは不吉な方角という、いい加減な、間違った知識しか持たなかった私には、新鮮で驚きに満ちた話だった。

「なるほどだからそこには格式の高い神社仏閣がいくつも存在するのか」と思い、早速広島周辺の地図を買い求め、東西にその中間に線を引いて、広島市が風水の中心地であることを悟った次第である。

誤解を恐れずに言えば、広島が原爆であれだけ大きな被害を受け、70年草木も生えないという放射能汚染された代わりに、近代化した美しい町並みに変身し、世界中で最も知名度の高い都市になれたのも、広島という地が風水的にいかにすごい土地柄かということになる。

 話は飛ぶが、原爆の後私が、何度も生死をさまよう大病をしながらその都度蘇り?を果たして、なんとか古稀を経て喜寿との中間点まで生き延びたこと、当夜死の灰を溶かし込んだといわれる「黒い雨」にも見舞われず、それよりも「被爆の翌日、放射能が充満する広島市内中心部をゆっくり横断しながら、それでも生きている」という事実から、ひょっとするとそれは、私が「二葉山の霊気というバリアに護られていたからではないか」と真剣に考えるようになったのである。

 このことを知人に話しても、迷信だとか思い過ごしだとか笑い飛ばす人が少なくて、真面目に聞いて下さる方が増えたことも事実である。

 今その霊地にトンネルを穿とうという計画が進行しているとか、なんとかそんなバカげた計画は即刻中止して欲しい思いである。

  ● 中村忠之さんのホームページ
       縄文塾   キャッスルゲート
  ● 中村さんの同期会の原爆体験を紹介したホームページ
       原爆とボクたち


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